2009-01-01から1年間の記事一覧

車掌さん

都電やバスには、がま口のような形をした黒い多いな料金鞄をぶら下げた車掌さんが乗っていた。出で立ちからわかるように、料金の回収が一番の仕事である。乗るときに売るのではなく、発車してしばらくしてから車内をまわり新しく乗ってきた乗客に切符を切っ…

量り売り

おでんや豆腐はナベを持って買いに行った。 醤油やソースは一升瓶を持って行き、樽から注いでもらう。わたしは買いに行ったことはないが、お酒もそうだったかもしれない。 味噌は秤で量って経木に包む。豆は枡ですくって新聞紙で作った袋へ容れる。 いま、こ…

ジュース

いまでこそ、紙パック入り、瓶入り、缶入り、ペットボトル入り、多種多様のジュースが出まわっているが、幼少のころはジュースは身近な飲み物ではなかった。お腹をこわした折などにおろし金ですりおろした林檎を飲ませてもらうのが関の山だった。めったには…

停電

昔はしょっちゅう停電があった。一瞬にして街が暗くなった。台風の時はほぼ確実に電気が止まり、真っ暗な部屋で大きな不安に包まれていた。 テレビ電波の乱れはそれ以上にあった。良いところでシャーッと言う音がして画面が縞状なって見えなくなってしまう。…

尺貫法

小学校で長さや重さを初めて習う前に「メートル法を学びます」という断りがあったように覚えている。わざわざそんなことを断ると言うことは少し前までは尺貫法を使っていたのだろう。法律だかなんだかでメートル法を使用するよう定めた直後だったのかも知れ…

キャラメル

一番のお馴染みは黄色い箱の森永ミルクキャラメル。濃厚で豊かな味と量だった。 次に食べたのは赤地に白の明治クリームキャラメル。上品でさっぱりした感じ、量的も少ない感じがしました。なぜかはかなげな感じがした。 特筆はグリコ。はっきり言ってうまく…

トロリーバス

トロリー・バスというものがあった。都電と同じように架線があってそこから電気を取って走るバスである。都電と違って、線路はなく運転手のハンドル操作で走るバスである。なんともまあ中途半端な乗り物である。下手すると架線から外れかねないが、そのよう…

都電・市電

昭和の人気投票をすれば、都電、市電なのどの路面電車は間違いなく上位にランクされれだろう。ところがわたしには、あまり鮮明な印象が残っていないのだ。 東京にいた頃には、かなり乗っていたはずなのだが、いかんせん小学校低学年までだったので記憶が定か…

屑屋さんとバタ屋さん

昭和の時代、廃品のリサイクルに一役かっていた職業に屑屋さんがある。後のちり紙交換などの廃品回収業の先駆けでもある。武士が登場する落語の主人公になっているところをみると江戸時代からあった職業なのだろう。 背中に大きな丸い竹駕籠を背負い、この中…

トレパン

かつては定番であったのに最近すっかり影を潜めてしまったもののひとつにトレパンがある。 体操服の今昔を語るとまっ先に出てくるのは提灯ブルマーであるが、男子としてはトレパンの衰退も見過ごせない。 その前に、ご存じないかたのために。トレパンという…

オート三輪

昭和の象徴的なクルマといえばダイハツのミゼットが定番になっているようだ。確かに、ミゼットは一世を風靡したクルマである。が、わたしの感覚は少し違っている。ミゼットより一世代前のクルマにより多くの愛着を覚えている。 それはオート三輪。もちろん、…

傷痍軍人

気がついたらきのうは終戦記念日だった。終戦ではなく敗戦だ、とこだわるひともいるけれどわたしはどっちでもよい。ただ、あの戦争は負けたから悪いという風には思わない。じゃあ、価値さえすれば良い戦争だったのか、と減らず口をききたくもなってくる。ま…

かっこいい腕時計のはめかた

マイカーなんていう言葉すら無かった頃の少年にとってバスの運転手はかっこいい仕事のひとつだった。自分で車を運転するなんて信じられない時代に大きなバスを自在に操るのだからかっこいいこと極まりない。狭い道でのすれ違いなど名人芸を見せられるともう…

半ドン

昭和についてあれこれ書いているが、わたしにとっての昭和とは二、三十年代を意識している。が、今回取り上げる半ドンに関してわたしの実体験はこれとかなりずれている。 半ドンというのは、半日だけ仕事をしたり、授業を受けることこと。ドンというのは正午…

住み込み

昭和の集団就職についてちょっと勘違いしていた。集団就職の勤務先のほとんどは人手不足の(大)工場とばかり思っていた。なんとか電気、なんとか製作所といった大手企業の工場で働くひとがほとんどかと思っていた。そしてその多くは会社の提供する寮で暮ら…

空からビラ

子どものころはよく見かけたのにこの頃はすっかり影を潜めてしまったものはたくさんある。そのうちのあるものは懐かしい光景として、本やテレビなどで取り上げられるが、あるものは話題にものぼってこない。話題にのぼらない事柄の中には意図的に抹消しよう…

鉛筆の値段

小学生の頃(昭和三十年代)、鉛筆の値段は一本十円あるいは五円だった。三菱鉛筆トンボ鉛筆は十円、地球鉛筆は五円、コーリン鉛筆はどっちだったか。 中学、高校時代も同じだったが、地球鉛筆、コーリン鉛筆を見かけることは少なくなったように思われる。高…

年号

子どもの頃、年号は元号、すなわち昭和で数えていた。子どもだったこともあるだろうが、それが当たり前で特に不便もなかった。周りにも昭和で通用した。というより昭和でなければ通用しなかった。自分の生年も昭和でしか言えなかった。 西暦が堂々と表に出て…

ゴミ

昭和三十年代の生活を振り返って、どうしても思い出せないことのひとつにゴミ処理の方法がある。あのころ、いったいどうやって家庭のゴミを処理していたのか思い出すことができない。 道路に木製、後にコンクリート製の据置型のゴミ箱が置かれていたことは覚…

幼稚園

昨年三歳になった孫がこの四月から幼稚園の三年保育コースに通っている。その親であるむすこは二年保育。さらにその親のわたしは一年保育を受けた。 わたしの時代、これは地域性もあるかもしれないが、皆がみな幼稚園へ行ったわけではなかったようだ。 いま…

物干し台

屋根の上の物干し台、いまではほとんど見かけなくなった。 この物干し台、二階の窓から行き来できるものも見かけたがそれは例外的な構造。平屋の屋根の上に造り専用の階段をつたって上るのが一般的。 二階が在ればそこに洗濯物を干すことができるし、あるい…

福助人形

最近はほとんど見ることがなくなったが、かつて福助人形は日常の中にしっかりと存在していた。わが家にはなかったが友達の家ではよく見かけた。 友達の家で思い出したが、遊びに行って通されるのは、子ども部屋や応接間、客間ではなく、決まって茶の間であっ…

電話

携帯電話が恐ろしいほど普及している。ひとり一台電話を持つ日もそう遠いことではないのかも知れない。 わたしが子どもの頃は電話のある家のほうが珍しかった。地域性もあるが、小学校低学年の頃の名簿を見た記憶では電話のある家はほとんどなかった。電話が…

宇宙開発

ソ連とアメリカが競っていたが、人工衛星に犬が乗ったのも、人が乗ったのもソ連のほうが早かった。 ソ連は秘密主義で成功した事例しか公表していない。成功例の前にたくさんの犬や人が失敗して死んでいる可能性が高い。失敗しても秘密なんだから、確立がさほ…

マナーは昭和より平成

子どもの頃、道を歩いていてしょっちゅうガムやら犬のウンコを踏んづけた。ほんとうにしょっちゅうである。 ということは、そこら中にガムが吐き出され、犬がウンコをしていたことになる。確かに噛んだあとのガムをそのまま平気で道に吐き出すひとが多かった…

履き物

子どもの頃どんな履き物を履いていたのだろうか。はっきりした記憶がない。 小学校にあがるまでは、下駄が主だったような気がする。幼稚園の“ハレ”の卒園写真には下駄履き姿のわたしが写っている。夏はともかくとして、靴下で下駄は履けないので、寒い季節に…

南極探検

南極探検船宗谷。南氷洋に行ったはよいが、氷に閉じこめられて身動きできなくなる。その模様が毎日ラジオで放送される。 閉じこめる氷はますます厚くなってくる。絶体絶命。そのなとき強力な助っ人が現れた。それがソ連(当時)のオビ号。厚い氷を力強く蹴散…

黒煙は元気の象徴!?

昭和三十年代の日本。戦争により荒廃・疲弊した国土が高度成長に向かって胎動を始める。 その活力を現すためにしばしば使われた光景が、工場の煙突から勢いよくもくもくと吐き出させる黒煙。この真っ黒な煙の勢いが国の力を象徴していた。 もちろん当時は公…

竹馬・凧揚げ、そして駄菓子屋・紙芝居

つづけて、経験しなかったことを先に書いてしまおう。 たとえば、竹馬、凧揚げをやった記憶はない。駄菓子屋、紙芝居は皆無ではないが足繁く通ったわけではない。 竹馬・凧揚げをやらなかったのは、おそらくは私の性格による。子どもの頃のわたしは大層やっ…

メンコ、ベーゴマ、ビー玉

さて、ブログを立ち上げたは良いが何から書き始めようか決まらない。あれこれ迷ったのだが、意表を突くもので幕を開けることにした。 それが標題のメンコ、ベーゴマ、ビー玉であるならば、ちっとも意外ではないと思われるでしょうね。これらについては、いか…