福助人形

 最近はほとんど見ることがなくなったが、かつて福助人形は日常の中にしっかりと存在していた。わが家にはなかったが友達の家ではよく見かけた。

 友達の家で思い出したが、遊びに行って通されるのは、子ども部屋や応接間、客間ではなく、決まって茶の間であった。その理由は明白、当時の家には子ども部屋も応接間も客間も無かったのだ。また、茶の間と言ったが、それは昼間の話である。夜になって、ちゃぶ台の脚を折り畳んで隅に立てかけると茶の間は寝室となる。そうやって狭い家に大人数で暮らしていたのだ。

 その茶の間には小さな茶箪笥があって福助人形はその上に鎮座していた。あるいは玄関の下駄箱の上に置かれている場合もある。下駄箱のほうが格上のようだ。

 福助人形というのは、博多人形のような彩色を施された人形で、裃をつけ、四角い座布団の上に座っている。畳に手をついて軽くお辞儀をしているようにも見える。からだに比べて頭がとびきり大きい。そして、その頭に比べてさらに大きな福耳をもっている。

 どうして多くの家庭に福助人形があったのかはよくわからない。福を招く人形と歓迎されたのだろうか。店なら招き猫、家庭なら福助人形といった棲み分けをしていたのかも。あるいはもっと単純に、なにかの景品として大量に出回ったのかも知れない。福助足袋あたりが配ったのかも知れない。なら、なぜわが家にはなかったのだろうか。あたらなかったから、福に見放されていたから? うーん、悲しい。

 その一斉を風靡した福助人形もいまではほとんど見かけることがなくなってしまった。いまや骨董店の商品となっており、おそらく当時よりは値打ちが上がっている。

 あのころは、福助人形のほかにも、大黒様やら鮭をくわえた熊などの置物をあちこちのお宅で見かけた。置物ブームがあったのだろうか。

 その大黒様をもてあまし捨てようとして四苦八苦するのが町田康のデビュー作『くっすん大黒』(講談社)である。昭和の人気者も平成なると捨てられてしまうのだ。かくして昭和の家庭の人気者は、平成の骨董店の人気者に転身していく。もてあまし、捨てられたにもかかわらず値打ちは上昇していく。これもまた時代の流れ、かな。