都電・市電

 昭和の人気投票をすれば、都電、市電なのどの路面電車は間違いなく上位にランクされれだろう。ところがわたしには、あまり鮮明な印象が残っていないのだ。

 東京にいた頃には、かなり乗っていたはずなのだが、いかんせん小学校低学年までだったので記憶が定かでない。西新井が一方の行き先なのはなんとなく覚えているが逆はどこ行きだったのやら。蔵前の国技館日本橋三越まで行ったような記憶もあるがはっきりとしない。料金がいくらだったのか、乗り換えはどうしたのか、さっぱりわからない。

 その後移り住んだ大阪では、普通の電車に乗って大阪市まで行かなければ市電は走っていなかった。大阪市内をうろちょろする用事もなく、高校を卒業するまでに二三度くらいしか利用したことがない。京都の市電にはしばしば乗ったのだが。

 大学生の頃の横浜はまだ市電が走っていた。が、時間はあるがお金のない学生だったので市電はほとんど使わず、もっぱら歩いて移動した。いま思えば、貴重な体験をする絶好の機会だったのに惜しいことをしたものだ。

 数年前に、都電荒川線に乗ったが昔のおぼろな記憶とは少し違っていて違和感を覚えた。

 ひとつは座席が少なく座れないことが多いこと。昔はロングシートで詰めれば結構座れたような気がする。これが前を向いた一人掛けだったり、二三人幅のロングシートだったり、あるいは座席そのものがなかったり、と着席できる人数がかなり少ないように思われる。

 もうひとつは停留所がきちんとした駅舎になっていること。昔は階段一段分ほど高くなっだけの停留所だった。この停留所が道路の真ん中にあって、両脇を自動車が走り抜けるので怖い思いをしたこともある。

 さらに、ほとんどの区間が専用軌道になってること。自動車と同じ路面を走るのは飛鳥山あたりくらいだろう。昔はほとんどが路面だった。停留所の恐怖もそれゆえである。

 自動車と同じ路面を走るということが交通の妨げとみなされてどんどん廃止されていった。ほんとうは自動車が電車の通行を妨げていたのだが。そんなこととはつゆ知らず、わかったような顔して学級新聞に市電廃止論なるものを書いてしまったこともある。あな恥ずかしや。