牛乳配達・牛乳ドロボウ・昭和の音

 牛乳がビンに入っていたころ、牛乳屋(さん)という店があり、牛乳はそこで売られていた。一軒の牛乳屋さんは、森永、明治、名糖といったメーカーのどこか一社だけの製品を扱っていた。森永の牛乳屋さん、明治の牛乳屋さん、名糖の牛乳屋さんなど、がそれぞれ一軒の店を構えていた。

 牛乳は店で売られるだけでなく、毎朝、契約している家庭へ配達された。契約している家庭の塀や玄関には、それぞれの牛乳メーカーのマークが書かれた木製の牛乳箱が付けられていた。牛乳配達のおじさんは毎朝、その箱へ、間違わずに所定の本数の牛乳を入れていく。

 いや、ときどきは本数を間違える。多いときは〝もうけ〟と思い、ありがたく、大事に頂戴する。足りない場合は、牛乳屋さんが間違えたか、あるいは、誰かに飲まれてしまったかのどちらかである。

 他人の家に配達されて牛乳をコッソリ飲んでしまう、そんな輩も少なからずいた。これを大げさに〝牛乳ドロボウ〟と称していた。そんな時代だった。

 話を戻す。牛乳配達の多くは自転車に乗って牛乳を配っていた。ハンドルに大きくて丈夫なズックの手提げ(トートバッグのような形)をかけ、そのなかに、配達する牛乳と回収した空ビンとをバランスよく収めていた。その牛乳ビンのぶつかる音が朝の時計代わりでもあった。個人的には、この牛乳ビンのぶつかる音は、昭和を代表する音のひとつである。

 ビンはガラスだから落としたりぶつけたりするとわれてしまう。なんかの拍子で割れてしまった牛乳は売り物にはならない。運がよければ、通りすがりにそんな牛乳をもらうこともあった。のどかな時代だった。

 牛乳配達は力と技量のいる仕事だ。なので、新聞配達や納豆売り、シジミ売りなどとは違って、こどもにできる仕事ではなく、がっちりしたお兄さんやおじさんばかりだった。

 四面体のテトラパックになり、それもすたれ、直方体のいわゆる牛乳パックになり、ビンは完全に量がされてしまった。ときを同じくして、牛乳は配達されるものではなくなり、買いに行くものとなってしまった。そして、牛乳屋さんも消えてしまった。牛乳箱や、ビンのぶつかる音も遠いむかしの思い出となってしまった。