昭和の時代はいまよりも「死」というものが身近に存在していたような気がする。しょっちゅう、死にであっていた。

 子ども向けの物語にも死はふつうに登場していた。たとえば、『赤毛のアン』。この本を読んでいると随所に死が出てくる。死というのが日常的な出来事であるかの感すらする。さっきまでぴんぴんしていたひとがあっけなく死んでしまったり、長患いしていたひとが静かに死を迎えたり。

 さて、話を現代に戻す。アンのころや昭和の時代に比べると、日常から死というものが遠ざかっているように思われる。気のせいかもしれないが、身近な死よりも有名人の死亡記事のほが多いような感じもする。

 日常から死が遠のいたのはどうしてだろう?

 予防医学の発達や定期検査の充実で突然死が減ったことも一因であろう。交通事故などの事故死も減っているのだろう。このように死そのものも減っているのだろう。

 いっぽうで、核家族化、子どもが少ないという意味の少子化が進み、家族の数が減っている。また、親戚づきあいや近所づきあいも減っている。身近なひと、そのものが減ってしまった。なので、死の報が伝わってこないということもあるのだろう。死の数はさほど変わっていないのだが、関わる死が減っているだけなのかもしれない。なので、関わってもいないのに伝わってくる有名人の死が目立つのかもしれない。