高いフェンス

 小学校三年生のころ、横浜港に停泊中のアメリカ客船クリーブランド号(もしかしたら姉妹船のウィルソン号だったかも?)を見にいったことがある。そのとき、駅(何処の駅だかは覚えていない)を出ると岸壁まで見晴らすことができたような気がする。はっきりした記憶ではない。あるいは、後日の刷り込みかもしれない。よくわからないけれど、戦後の復興いまだならずの荒涼とした横浜を見たような気がする。

 それから約十年。1970年の横浜。このころは、わたしの意識では昭和はど真ん中ではなく、ほぼ終焉の時期ではあるが。

 七十年。わたしは横浜で大学生活を送っていた。そのときに買った地図が出てきた。そのころは、この地図を眺めてはふらふら歩き、歩いて帰っては地図コースを確かめていた。

 いま、その地図に目を通していくと、建物名はほとんど違っているが、町名などはおおむね当時のままである。が、当然だが、細かいところはまったく違っている。

 小さい字を追っていくと〝米軍施設〟という文字がやたらに目につく。石川町駅山手駅の間の東側に点在している。南に行けば三渓園の北側の本牧は広大な区画が〝米軍施設〟となっている。

 そう、戦後四半世紀経ったあのころに、広大な米軍施設があったのだ。施設といっても軍事施設ではなく、米兵の住宅地が大半だった。さすがに戦後四半世紀経てば、米兵は戦闘員としての兵隊さんではなく治安維持等のための滞在者であった。なので、家族を呼び寄せ、ここで暮らしていた。ここにはアメリカの日常があった。

 居住地は高いフェンスで囲われ、日本人は立ち入ることができなかった。フェンスの内側では、テレビで見るような豊かで楽しそうな生活が営まれていた。特にクリスマスの時期などは、フェンスの内と外では大違いだった。フェンスのわきを歩いていると、惨めな気持ちになってきた。

 おかしなことにこの惨めな気持ちはいやではなかった。というよりも、惨めさを味わうためにわざわざそのあたりをふらふら歩き回っていた。どうしてそんな気持ちになったのか、いまとなっては良くわからないけれど。