屋根に上る

 昭和の時代はよく屋根に上った。屋根の補修をしたり、誤って屋根まで飛ばしてしまったボールなどを取るためにのぼるのは理由のあることだが、そうではなく、用もないのに屋根に上ることもよくあった。

 上ってどうするか。どうもしない。腰掛けて夕陽をながめたり、下を歩くひとをながめたり。それだけである。

 自分でも上ったし、屋根の上にひとを見かけることも珍しくはなかった。

 さて、いまはどうでしょう。ここ何十年も屋根に上った記憶はないし、屋根の上に人を見かけることもない。

 どうして上らなくなってしまったのだろうか。建物の構造が上りにくくなったのかもしれない。屋根瓦が減って屋根の強度が減ったのかもしれない。

 いや、それ以上に一軒家が減ったこともある。上りたくとも上る屋根がない。

 また、上れる一軒家があっても、まわりを高い建物に囲まれているので、見晴らしが絶望的になってしまったことも大きな原因なのかもしれない。

 なにはともあれ、昭和の光景がひとつ減ってしまった。

町の電気屋

 昭和三十年ころまでの家庭には、テレビも洗濯機も冷蔵庫もなかった。町の電気屋さんで売っているのは、電球やテーブルタップ、自転車のダイナモ、それに電池くらいだったのではないでしょうか。大もうけすることもなかったでしょうが、それなりの商いはあったようです。

 昭和三十年に入ると、家庭に一気に電化製品が入りはじめた。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、こたつ、炊飯器、トースター、プレイヤー、……。さらには、ステレオ、クーラーなど。

 当時は、家電量販店はおそらくまだ存在しなかった。なので、これらの電化製品は町の電気屋さんから購入した。電気屋さん、大繁盛である。電気屋さんが扱うのは、一つメーカーの品だけである。松下の店、日立の店、東芝の店、などなど。

 品物が売れると電気屋さんはそれを設置しに購入者の家に出向く。家の中で作業するので、家族構成やら経済状況もそれとなく知ることができただろう。電化製品の有無は当然のように把握している。ニーズや希望も掴んでいたことだろう。なので、機を見てセールス販売にやってくる。電気屋さんが町に溶け込んでいた時代である。

 電気屋さんは売るだけでなく、修理も行った。電化製品には回路図がぶら下がっており、それを見ながらテスターと半田ごてを手に修理作業を行った。専門知識の要る職業だった。集団就職でやってきた若者を自宅に住まわせ、実地教育しながら育て上げる店も普通だった。

 よき時代であった、のだろう。

消防自動車の鐘

 昭和の消防自動車のサイレンは手回し、鐘も手で鳴らしていた。特に、鐘。疾走する自動車のステップに立って、カンカンと鐘をならす。勇壮な姿である。

 ところでなぜ鐘を鳴らすのだろうか??

 緊急性を伝えるだけならサイレンで十分であろう。

 救急車やパトカーと区別するため? そもそも区別する必要があるのだろうか?

 かつての半鐘のなごりだろうか?

 なんとなく消防士の景気づけのような気がしないでもない。先に述べたように、サイレンを鳴らしながら疾駆する自動車のステップに立って鐘を鳴らす姿は勇ましい。そういえば、サイレンも手回しのため、音にうねりがある。これも勇ましい。

 面白いことに、消防士が鳴らしてはいないけれど、消防自動車の鐘の音は現在も引き継がれている。これも理由はわからない。

冷蔵庫の鍵

 昭和の冷蔵庫には鍵がついていた。

 が、鍵を掛ける目的がよくわからない。

 冷蔵庫によっぽど貴重なもをが容れることが想定されていたのだろうか。といってもわざわざ他人の家に押し入って冷蔵庫の中身を失敬しようなどとは思わないだろう。泥棒なら冷蔵庫の中身よりも現金やら貴金属を持っていくだろう。

 ということは、家族から冷蔵庫の中身を守るため。むしろこっちのほうが考えられる。ひとり一個の割り当てがあったり、勝手に食べられては困るお客様用の品があったりするかもしれない。でもねえ、鍵を掛けるほどかなあ。

 それとも、食べては危険なものが入っていたのかもしれない。たとえばビールやお酒。これを子どもが飲んでは危険だから。多少は説得力があるけれど、「これだ!」というほどではない。

 いくつか類推してみたのだが、どれも決め手を欠く。また、思いついた原因はどれもいまでも変わっていない。だけどいまの冷蔵庫には鍵はついていない。ということは、別の理由があったのだろうな。それはなんだろう? うーん、わからん。

 観点を変えてみるか。

 中身を取られることを防ぐためではない鍵の用途も考えられる。それは、誤って冷蔵庫の中に入らないようにするため。シュールだねえ。冷蔵庫の中に入ったところ扉がしまったら出ることがでいない。寒さと酸素不足でで命が危ない。このような事態を防ぐために立ち入り禁止の意味で鍵がついていたのかも。

 もっとも、子どもが入れるほど大きくて空っぽの冷蔵庫は無かっただろうが。まてよ、廃棄された冷蔵庫ならありうるかも。だけど、廃棄されたあとのことを考えてわざわざ鍵をつけるだろうか。だいいち廃棄する冷蔵庫の鍵を保管し、かつ忘れずに施錠するだろうか。

 うーん、わからん。真の理由を知りたくなってまいりました。

下駄

 昭和の時代の履き物は、サラリーマンは別として、下駄と靴、半々だった。

 下駄を履く時は靴下ではなく素足か足袋を履いていた。ズボンに足袋というのも、決して特殊ではなく、あたりまの装いだった。

 下駄に足袋が日常の世界だった。

 靴も足袋もサイズは文(もん)だった。十文七分(ともんしちぶ)なんて言っていた。ジャイアント馬場の足は十六文だった。

百科事典、文学全集

 昭和の時代、応接間というのが流行った。床は板敷きで(フローリングという言葉はなかった)、ソファやサイドボードなど置いていた。サイドボードには(ゴルフの)トロフィーやら洋酒セットなどが飾られていた。どこでも同じようだった。

 硝子戸つきの本棚も置かれていた。棚には文学全集や百科事典が収まっていた。読むためではなく、かざるための本というものがあった。大判で分厚く、箱入り、金文字、革装など見栄えが肝心だった。

 古書店で見栄えの良い本を入手し、応接間に収める商売まであったとか。それが理由で当時は百科事典や全集に値がついていたのかもしれない。いまではすっかり安くなってしまった、というより買い取ってもらえなくなってしまったが。

関数電卓

 昭和の時代、計算には算盤を使っていたが、四十年代後半になると電卓が出回った。最初はラップトップコンピュータ並みのサイズで一桁あたり一万円という値段だったが、これが一気に小型化され安くなった。

 不思議なのは、小型電卓が出回り始めてさほど時間が経たないうちに関数電卓が出回ったこと。小さいのに大した機能をもっていた。三角関数やべき乗、平方根、対数などの簡単に計算できるようになった。かっこを含む計算も式通りにできるので重宝した。分数の計算までできた。製図の際には必須の道具となった。

 もっと不思議なのは、そんな関数電卓がすうっと消えてしまったこと。関数電卓無しにどうやっているのだろう。コンピュータを使って図面をかくCADシステムになれば、関数の計算もやってくれるけれど、CADが普及する前に関数電卓は消えてしまったように思われる。ほんとうにどうしてなんだろう?